「憧れと好きは違うって」なんかそういえばそんな言葉を好きな人が出来ると呪いの言葉か、呪文のように頭をよぎる。特に私は。
私は20代の初め頃まで、その時憧れている物を持っている人の事を好きになった。なんとも嫌な感じで言わせて頂くと、「恋を利用していた」と言ってよいかもしれない。自分の生き方や選択に自信が無かったのだ。自分の憧れに年齢が追いついていなかった。(先に言っておくけど、今はもう当時のように自分に自信が無いという事もないので、そんな風に人を好きになったりしないよ)
人は一つの生き方しか生きられない。毎日毎日何かを選択して「あり得たかもしれない人生」に決別の意をもってくだらない選択や、大きな選択をする。子供のときは近くにいる人は大抵同じ世界に住んでいた。クラスとか、クラブ活動とか。
大人になると個人差はどんどん広がり、1mm先の人とだって違う遠い交わることのない世界に住んでいたりする。その世界でしか通用しない時間軸、言葉、流行、そして人間関係。その世界に飛び込むにはもう遅すぎると尻込みするような世界がいくつも存在していたりする。それが、恋人になったとたんに今まで交わることの無かった世界にいきなり飛び入り参加が出来る。まるでVIP待遇パスポートである。
旅人の暮らし、ミュージシャンの暮らし、パーティーアニマル、映像作家の暮らし、洋服屋の暮らし、会社員の暮らし、外国人の暮らし、お金持ちの暮らし、お金の無い暮らし、都会暮らし、田舎暮らし、そういう自分一人では知ることの出来ない世界を「どうもお邪魔します」って入って知ることができるから恋は便利だと思っていた。なんてこども。。
もちろん、そんな世界がどーのなんて恋愛の中では取るに足らなくて、それよりもっとお互いの理解とかお互いへの信頼とか、ケアとか、そんな要素が複雑にシンプルに絡まってきたけど、でもどこかいつも我儘だったなあと淡く苦く思い返す。
そんな、恋に対しての考えが変わってきている。以前まで私は「職業」をその人の世界と思っていたけど、そうではないのだなあと気付き始めた。職業はその人を構成している宇宙の中の星一つであってその人の世界とは球根から広がる葉のようなもの。たとえ憧れの仕事を持っていても、それは所詮仕事であっていつその人がその仕事世界を離れるか分からない。その人がその仕事をしなくなっても好きかどうかを考えたらシンプルなんだろう。な。とか言いつつも
好きな人ができても恋人になれないなら好きな人なんてできなくてもいい
という極論に今は至っているスーパーネガティブロマンティック強情ガーリー炸裂期間(恋に前向きなんだか消極的なんだかよくわからない状態)ですが、今はまるで瀬戸内寂聴かのように非常に穏やかに凪いだ海のように周囲で繰り広げられている友人たちの恋模様を眺めています。
そして幸せそうな恋をしている友人たちはとても居心地よさそうに、人間と人間の本質的に惹かれあっているようで穏やかな恋をしています。そういうのもあるのだろう。
みーんな幸せになーれ ふふっ~★